洪秀全
当初広州付近で布教を行ったが成功はしなかった。道光24年(1844年)、洪秀全は馮雲山とともに広西に移動して布教活動を行い、その地での信徒を増やしていった。道光25年(1845年)から道光26年(1846年)の間に『原道醒世訓』、『原道覚世訓』、『百正歌』等の作品を発表している。道光27年(1847年)初め、広州に戻った洪秀全は教会で数ヶ月教義を学習し洗礼を求めたが、教会は教義に対する認識が不十分として拒絶した。洗礼を受けることが叶わなかった洪秀全は再び広西に向かい馮雲山と合流、拝上帝会の規則や儀式を次々と制定していった。勢力を拡大した拝上帝会は、キリスト教と相反する清朝と次第に対立するようになる。